農業の価値はただ食料を生産するということだけではなく、それを営むことでもたらされる様々な恩恵も含む。例えば水田は治水機能をもち、豪雨による洪水や土砂崩壊を防ぎ、地下水の涵養を行い、多様な生物の生育の場となり、美しい景観を維持し、農村文化の伝承も担っていく。それらを形成し維持する農村は、日本の原風景であり、我々が進むべき方向を迷った時には、立ち戻ることができる原点でもある。たやすくお金に変換できない価値がそこにある。
それを農業の多面的機能として守っていこうと、様々な取り組みが各地で行われているが、高齢化は依然進み続け、異常気象が頻発し、困難も多い。また農業の成長産業化が単なる利益拡大に偏れば、多面的機能を損なうということにもなる。農地をただ維持すればそれで良いというわけではないのだから。多面的機能の維持に奮闘する集落の取り組みを追った。(記事内の数値・状況は2019年8月現在)
地域の農業を守るために保全会を結成
梨の名産地でも高齢化が進展し、多面的機能に力を
農業に対して憧れを抱く人は少なくない。命に関わり、それを守り育む仕事は、生きることの根本にあってやり甲斐もあり、大きな魅力を持っている。しかし、人を惹きつけるのはそれだけではなく、多くの喜びが、農業を営むことに付随する様々な物事、あるいは農業がある暮らしの中にある。心を震わせる景色があり、心を通わせる親密さがあり、その日常が人を農村にとどめ、あるいは誘う力となる。決して小さくはない力に。しかし時の流れはその日常を変えていく。それは農業・農村が魅力を失っていくということであり、農業の持続が脅かされることに繋がっていく。
さて、今回お訪ねしたのは鳥取県中部の湯梨浜町。平成16年に東郷町と、羽合町、泊村が合併してできた町だ。町のシンボル東郷池の湖底からは温泉が湧き、その湖畔では東郷温泉、はわい温泉と名のある湯どころが営まれている。また山間部の傾斜地は二十世紀梨の生産が盛んで、“東郷産二十世紀梨”はブランド梨として評価も高い。海岸部に行くと、砂丘地帯が広がり、夏場は海水浴客で賑わう。自然の恵みが豊富だ。その町の西部に門田地区がある。「温泉から“湯”の字、特産品の“梨”の字、浜辺の“浜”の字、町の特徴を表すそれらの字をとってきて湯梨浜町となりました」と門田地区 農地・水・環境保全会の岡本隆夫代表(69歳)が教えてくれた。他にも保全会役員の前田秀穂副代表(66歳)、生田明英書記(72歳)、前田昭夫企画部長(64歳)に集まって頂き、平成29年度多面的機能発揮促進事業中国四国農政局長表彰において最優秀賞を受賞した、農業・農村を維持するための取り組みについて聞いた。
水稲は農地維持のために継続している
門田地区は、東郷池の南西部沿岸部に位置し、湖面から連なるようにして水田が広がり、山間部では町特産の二十世紀梨の栽培が盛んに行われている。「水田が約40ha、畑地が約10ha、合わせて50haほどの農地があります」。その中で農家数は43戸、非農家は39戸とほぼ半々。農業が主な産業となる農村地帯ではあるけれど、「昭和50年代に80戸以上あった農家が平成20年代には半減しました」。急激な高齢化により農地・施設の保全管理が年々難しくなり、また水稲栽培は「集落内の認定農業者さんのお世話になっています」。農地集積が行われているが、それにも限界があり、担い手の負担軽減をさらに考える必要が出ていた。そこで「平成20年3月、農地・農業用施設の保全管理と農村環境の保全を目的に門田地区 農地・水・環境保全会が設立されました」。これを国が行っている“農地・水環境保全向上対策”の受け皿として、農業、地域を守る活動を展開している。
役員は6人。代表の岡本さんは鳥取県の新品種“星空舞”も手がける水稲農家、副代表の前田さんは水稲と二十世紀梨をつくり、生田さん、前田昭夫さんは水稲を栽培。規模に関してはそれほど大きくなく、基本的には農地を守るための農業。それは集落全体でも言えることで、「収益よりも農地維持の意識が強い」。残り2人の役員は30代、40代と若く、「都会から農業をするということで帰ってきたUターンです」。地域農業を持続するための頼もしい力となっている。水田40haのうち、約半数が担い手の預かりとなり、大豆に関しては営農組合を組織し、集団での取り組みを実施。「耕作放棄地は今のところ出ていません」。
しかしこの現状がいつまでも続くのか。高齢化は依然として進み、「近い将来、作れなくなる人が出てきます。しかし今いる担い手はもう手一杯です」。集落の農業を担い手任せに出来ない現状がある。担い手以外の人々も力を合わせていかなければ、集落の農業は維持できない。昔から集落全戸が参加する総事として共同活動が行われてきたが、高齢化により参加できない人も増え、それをどうやって維持していくのか。保全会がその課題解決の一つの力となっている。
協力して農業インフラを整備
水路の泥上げなどは集落の総事として非農家も参加
保全会がまず取り組んだのは、これまで地域農業を支えてきたインフラを整備すること。地域資源の基礎的な保全活動として、水路の泥上げ作業や農道の路面維持作業、樹園地の草刈作業などを行っている。春先の水路の泥上げは集落の総事として非農家も参加して共同作業を実施する。「水路には生活排水なども入ってきますので、みんなでやります」。また圃場整備が完了してから30年以上たつ圃場では畦畔の不等沈下や施設の劣化が見られるため、畦畔の再構築や水田取水口・落水口の修繕などが行われている。この他、地盤沈下して大雨が降れば水没してしまう農道の嵩上げや、劣化した水路の更新、樹園地農道の路肩補修などを行っている。「通常、農業の補助事業では地元負担や農家負担が伴います。しかし農業情勢が厳しい中、農家負担が出せる状況ではないので、支援を頂けることは大変ありがたい」。多くの設備は経年により機能が低下し、それを放置しておくと、やがて使用することができなくなる。それが離農を招くこともあるわけで、計画的に設備の維持を図ることの意義は大きい。
ジャンボタニシを一斉駆除
農業生産の設備以外にも農村環境の保全活動として、ジャンボタニシの一斉駆除を行っている。「用水路や排水路にジャンボタニシの赤い卵がいっぱいいます。それを水の中に落とします。暖冬だった影響か今年は例年以上に多いですね」。移植後の水田を食い荒らし、大きな被害をもたらしている。外来種侵入による生態系の乱れであり、圃場ごとの対処ではらちがあかない。集落全体で対応しなければならない課題となっている。この他にも環境保全として、小学生による生き物調査・水質調査や農道に花のプランターを並べる取り組み、全戸でゴミ拾いを行うクリーン活動を実施。農村の美観を高める活動にも力を入れている。
地域内の様々な組織を巻き込んで活動
門田地区の取り組みの大きな特徴は「集落の中にあった様々な組織を巻き込んでいったことです」。集落内には農業者、営農組合、土地改良区など農業に関わる団体の他、自治公民館や老人会である寿会、婦人会、子ども会、保護者会、消防団など合わせて9つの組織があり、活動に幅広い参加を得ている。保全会発足前の平成19年、副代表の前田さんは共同作業の総事に支援が受けられると、集落の総会で発足の承認を得ようと再三説明したが、「最初はよく分からないものという感じで、なかなか理解は得られませんでした」。それで様々な団体に出向き、「やらせて下さい」と熱意をもって個別に説き、賛同者を得て、平成20年に設立となった。「始まったら皆さんの評価はよく、地力のない農家は大変喜んでくれました」。
今集落の高齢化率は35%超。老いと闘い、自然と闘いながら、集落の農業の維持が図られている。それに伴って農業に付随する様々な価値も守られている。美しい景観であったり、多様な生物の生育の場であったり、多面的機能の発揮とも言えるが、中でも農村の暮らしそのものへの影響もあり、これまでの暮らしに変化が現れている。
農村コミュニティーを強化
コミュニケーションがとれ村が少しずつ変わってきた
「多くの団体を巻き込んでいますので、何か行事をするときは、団体の枠を超えて様々な人が集まります。いつもは顔を合わせない人たちですが、そこで互いに興味を持ち、顔見知りになり、会話を交わし、コミュニケーションが生まれます」。普段はその団体の中でしか顔を合わせることがなく、交友関係はどうしても狭くなるが、共同作業などがそれを広げるきっかけになっている。「集落内でコミュニケーションがとれるようになって、村が少しずつ変わってきました」。農業が生み出す多面的機能の一つである農村コミュニティーの強化に繋がっている。
その取り組みの中でも大きな役割を果たしているのが、小学生を対象とした体験学習“田んぼの学校”。手作業による田植え体験や稲刈り体験、収穫したもち米による餅をつき、稲わらでのしめ縄づくりなどを行う。昔ながらの稲作栽培や農業に由来する行事、文化の伝承を行っている。その中で高齢者は、世話をしたり指導したりする役割があり、また収穫したもち米は町内の子ども園や福祉施設に贈呈するなど、農村内の交流を深めている。さらに遊休農地の発生防止を兼ねてソバを栽培し、収穫したソバは地区の保健福祉会と連携して、年末に1人暮らしの高齢者等へ年越しソバとして配布。「1人暮らしの老人の見守り活動でもあります」。農業をきっかけに集落内の交流を促進している。
農村集落であっても、結びつきの強い親密な関係は失われつつあるのが現状。「朝7時半頃に車で会社に出かけて、夜8時頃帰ってきたのでは、村の人の顔を見ることもありません」。都会と同じく、隣は何をする人かを分らぬまま暮らすことになる。保全会の活動がその状況を変える大きなきっかけになった。集落の中に共同で行う仕事があるからこそ、親密さが生まれる。
地域の交流が一番の財産
また地域コミュニティーの強化として、情報発信活動にも力を入れている。「“保全会たより”という広報誌を不定期で年2回ほど出し、全世帯に配っています。参加していない方にも保全会の活動内容が分るよう、オープンにしています」。閉鎖的にならないようにすることが重要で、それが協力しやすい雰囲気をつくる。
「保全会の活動の中で交流が一番の財産です。子どもたちが大きくなってもその顔がほとんど分ります」。最初は、農地の維持を目的にした取り組みだったが、農村コミュニティーの強化へと発展し、世代を超えた繋がりも生み出した。田んぼの学校を卒業した子どもたちの作文には、“お米のありがたみ”、“力を合わせることの大切さ”を学んだと書かれている。思いが受け継がれ、故郷への愛着となり、農村が受け継がれていくことに繋がればと思う。その子どもたちに、農業を営むことで生まれてくる、心を震わせる景色、心を通わせる親密さ、そんな喜びが日常にある農村の暮らしが残せれば素晴らしい。
今後の課題は、「高齢化の進展で耕作できなくなった農地の受け皿をどうするのか」ということ。集落営農組織の編成も含めて検討していかなければならない。「農地を守るだけならば法人組織が入ってくるということも考えられる。でもできれば門田の農地は門田の人間で守りたい」。いくら農地が維持できても、人任せにしたのでは門田にあった大切な何かが失われるかもしれない。「自分たちが住むところはお互い助け合いながら維持し、そして地域として自立する」。古き良き日本が持っていた価値感ではないだろうか。その思いが地域の維持に大きな力となるに違いない。