「経営者になりたい、事業を起こしたい」、一国一城の主は古くから夢の一つだ。単にお金持ちになりたいというばかりではなく、自らの意志と力で人生を切り開いていくことに大きな価値が見いだされる。農業においても、事業主を目指して挑戦する人々がいる。ビジネスとしての成功を求めると同時に自然を相手に自分の力を試すことにやり甲斐を感じる人々だ。
現場では後継者不足があり高齢化が進展するなど、全体としての勢いは物足りないが、農業を成長産業にしようとする動きがあり、就農支援制度も充実し、コロナ禍の中、地方が見直され、挑戦者には追い風だ。しかしいざ飛び込むとなると不安も大きい。新規就農ならなおさらだ。今回、非農家出身の新規就農者を訪ね、農業経営の実際を聞き、新規就農者の可能性を探った。
会社員からスイートピーの生産者に
将来の夢は独立して事業を始めること、それを農業で叶える
岡山県は“晴れの国”と呼ばれ、日照時間が長く降水量が少ない。その気象条件を活かして、ブドウや桃などの一大産地として知られている。また、花卉の生産も盛んで、特にスイートピーは国内シェアの約14%を占め、全国順位では3位に位置する。その岡山産スイートピーの9割を生産しているのが倉敷市の船穂地区だ。
「ここ船穂地区は平地が少なく土地が狭いので、そのような場所でも収益が上がる作物としてブドウとスイートピーが栽培されてきました」。そう語るのは、2000年に非農家から新規就農した木下良一さん(60歳)。ここ船穂地区に25aの連棟ハウスを持ち、スイートピーのみを専業で生産している。切り花のスイートピーは、11月上旬から翌年の4月上旬までの約半年間が出荷時期。JAを通して全国の市場に出荷している。本人と奥様の労働力に加えて、10月から4月までは8名のパートを雇用し、品質を重視したスイートピーの安定生産・安定出荷に取り組んでいる。
木下さんの出身は広島県。非農家の家庭で育ち、大学卒業後は、広島県の化学メーカに就職し製品開発や技術開発に携わってきたが、「将来は独立して何か事業を始めたい」と考えていた。その思いもあって、起業について調べていると「農業というのも独立した事業として考えられるな」と思い至る。農業が第一にあったわけではないようだが、それまで携わっていた物づくりであり、気持ちが傾いていった。そこで、就農に関して、広島県を含む中国地方5県を調査。すると「岡山県が全国的にも先陣を切って新規就農支援の取り組みに力を入れていました」。それを頼って早速県庁に就農の相談に行ってみると、農業の良い点だけで無く、高齢化をはじめとした問題点やリスクに関しても率直に伝えられた。「担当者からは農業の厳しい現実を聞きましたが、逆にそれを聞いて信用できるなと感じました」。
Iターン就農のメリットは就農場所を選べること
栽培する作物については、「当初から施設園芸を考え、その中で花卉を栽培したいと希望していました。趣味や嗜好品にあたるものは、自分の価値に合致すればお金を払ってくれると思ったからです」。この観点からも調べてみると岡山県にはスイートピーの産地があることが分かった。スイートピーは比較的手頃な単価で取引されており、価格の推移も安定している。「花卉の中でも、経営計画が立てやすい作物だと思いました」。
また、就農候補地の自然環境や自然災害のリスク要因なども調査した。「後継者として就農する場合、様々なものを引き継ぐことができますが、新規就農者は、経験も、知識も、技術もありません。しかし、どこで農業を行うか、場所を選ぶことはできます。それが有利なところです。それで災害リスクが少ないのではないかという場所にしようと思いました」。岡山県は活断層の数も少なく地震も比較的少ないとされ、木下さんにとっては好ましかった。
それらのことを総合的に考えると岡山県ということになり、その中で、「すでに販路がある組織に入る方が良いと思いました。物づくりは難しいものですが、売ることはさらに難しいので」。様々な検証の結果、同県のスイートピー産地である船穂地区が就農の適地となった。
ただその時、妻も子もある身、自分の思いだけで会社を辞め、農業という全く違う業界に入っていくことはできなかった。「就農が一時の迷いでないことを示すため、自分は何のために就農するのか、それによってどういうことが期待できるか、将来設計を立てました」。そこには就農の目的や目標、利益計画、運転資金、取り組む作物の位置付け、市場動向、海外状況なども記載され、新規事業計画書となった。これを基に家族や親族の了承を取得。説得材料としてだけではなく「施設園芸の場合は思った以上にお金が掛かります。事業計画を立てることで、問題点を客観的に見ることができます」。
新規就農者だからこその取り組み
環境制御システムを自作で作り上げる
1998年、家族で岡山に移り、木下さんの農業研修がスタートする。37歳の時だ。岡山県のモデル的な制度では研修期間は2年間で、1年目は受け入れ農家に入って農作業を学び、次の年は研修圃場を使って自分一人で農業を実践する。それから就農という段取り。研修期間中の生活費は事前に準備していたが、「研修期間中、県から月15万円の支給がありました。それだけでは生活できませんが、全額持ち出しに比べればありがたいことでした」。
2年間の研修を終え、いよいよ独り立ち。ほ場を取得することになるが、希望する利益が上げられる面積を1カ所で叶えられる現在の場所を借り受けることができ、地域の先輩農家に協力を仰ぎながらハウスを建て、木下さんのスイートピー生産者として第一歩が始まった。「施設園芸をするのですから、施設でつくる優位性を最大限活かしたいと考えました」。そのため環境制御システムを取り入れたいと考えた。研修期間中から、ハウスの開閉一つ取っても思っている以上に労力が大きいと感じていたためだ。「自分がやっても機械がやっても結果は同じです。そうであればうまく制御して機械でやった方が良いと考えました」。しかし、当時はまだ環境制御システムを導入する事例は少なく、設備費用もかなりの高額となっていた。「見積もりを取ってみたらびっくりする金額でしたので、それならば自分でつくろうと考えました」。環境制御システムに必要な知識や技術を独学し、電気工事の資格も取得。なんと自作の環境制御システムを作り上げてしまった。
先輩の作業を観察し、経験や勘をデータ化
ただ、それだけでは十分な活用はできない。役立つ物とするためにはデータを揃えていくことが必要になるが、そこには経験と勘に重きを置いてきた農業ならではの苦労があった。「例えば、研修時にどれくらいの水をあげれば良いのかを質問しても、今までの経験と勘で、“しっかりやる”とか“さらっとやる”とかの返事が返ってきました」。これでは正確な量が初心者には分からない。そこで木下さんは、まずはハウスの大きさやそこに植えられている本数などを測定し、そこにどれだけの勢いで水があげられているのかを観察。それを自分で再現し、1分間で何リットルの水になるかを計測、先輩の行為をデータ化していった。「現場で1時間半水やりをしているとすると、そこの圃場に何tの水が使われたかが分かります。何本植えてあるかは調べていますので、一株あたり何㏄水が必要なのかが分かります」。このようにして環境制御システムで自動潅水を設定する際の基準値を求めていった。経験や勘をデータ化しそれが多く集まるほど精度は上がっていく。
日々の環境データが蓄積され、作業履歴と付き合わせていけば、スイートピーの生育状況を科学的エビデンスを元に振り返ることができる。「高い品質のスイートピーを生産するためには、どのような栽培管理を行い、どのような環境が必要なのかが把握でき、作業の精度を高めることができます」。過ぎゆく時間が記録によって全て次に繋がっていく。またデータに基づいた自動制御で、手間と時間のかかるハウスの開閉や潅水などを自動化することができ、管理や観察に多くの時間を割くことができる。環境制御システムは新規就農者にとって、経験を補う強い味方だ。また、労力を削減し、品質を高めるものになっている。
誰もが働きやすい農業でさらに新規就農者を
地域にとって新規就農者は高齢化が進む中で、地域農業を持続する大きな力になる。この地区では県内でも早くから新規就農者の受け入れを積極的に行い、木下さんを迎え入れた他、今ではスイートピーを生産する花卉部会のメンバー16名の内、半数以上が新規就農者となっている。「船穂地区がスイートピーの産地として持続できているのは、外から新しい人材が入ってきたからです」。しかしそれでも高齢化が進んでいる。木下さんも60歳になり、「私も後を考える時期に来ています。次世代に繋いでいくためには、新しく農業に取り組みたいと思う人が魅力を感じるような経営形態にしなければなりません」。そのため木下さんは、労働負荷の軽減、作業時間、年間労働日数の削減、そして収入の向上をこれからの目標として掲げている。「これらに取り組むことは、自分自身のためにもなります。農業はきついとか苦しいとか言われたりすることもありますが、改善できることはたくさんあります」。
例えば作業ウエイトの高い運搬作業については、独自の運搬ロボットが検討され、作業の自動化が模索されている。また「農作業を標準化することで、誰もが同じ成果を得られるようにしていきたいと思っています」。それは農業の門戸を広げ、誰もが簡単に農業に携われるようになるということだ。木下さんが農業を始めた当初、経験や勘など現場にある暗黙知を理解することに苦労し、データ化によってそれを乗り越え、栽培の高度化や軽労化に繋げていったが、これからこの地で農業を始める人には、各人の感性と結びついたようなニュアンスではなく、科学的エビデンスに基づいたデータを示すことができ、これから農業を始めようとする人にとって、経験の浅さを補う大きな力となるに違いない。また軽労化は、女性の新規就農に繋がっていくのではないかとし、「女性の緻密さやコミュニケーション能力はこれからの農業に必要」と期待は高い。
木下さんが就農してから20年が過ぎ、花卉部会の部会長も経験し、地域農業にとって欠かせない生産者となった。今は新規就農者の受け入れ農家として技術指導に当たり、かつて受け入れて貰った経験を活かしながら、新規就農者の気持ちに寄り添い、スムーズな定着のフォローに努めている。「私の方法や考え方が、これから農業を始めようとしている人にとって少しでも参考になればと思っています」。新規就農者は地域にとって、最初は育てる存在かもしれないが、農業以外で得た知識や技術、先入観に捕らわれない考えがあり、それを活かしながら地域農業を牽引する存在にもなる。これから先、農業の主役の一端を担っていくに違いない。