“ぼくらが旅に出る理由”なんていう歌もあったけれど、それぞれにいろんな理由があるし、大した理由のないことも多いはずだが、少し改めて振り返ってみると、ストレスから逃れるためだとか、あるいは未知なる何かとの出会いを求めるためだとかに思い至る。物が満ちた時代だ。消費形態の趨勢がモノからコトへと言われ、体験の提供が注目される中、旅行に産業としての大きな期待がかかる。
農業に観光的要素を加えた取り組みもその一つで、食べ物としての農産物だけでなく農業体験も立派な商品となる。増加する訪日外国人の中では、農村部へ向かう動きもそれほど珍しいことではなくなってきている。名所旧跡を巡るだけが旅行ではない。例えば果物狩りに観光農園に出かける、田植えをするために農家民宿に宿泊するなど、田舎へと足が向かう。農業と旅行がコラボレーションすることで何が生まれてくるのか。その可能性を探る。(記事中の数値・状況は2018年5月現在)
農家がスキー場を作って民宿を始める
戸狩にスキー場をつくろう!
農村を旅行先の一つとして選択する人達がいる。有名な神社仏閣、景勝地などが取り立ててあるわけではなく、かといってリゾート地でもなく、刺激的なテーマパークでもない。そんな所へ何を魅力に感じて訪れているのか。そこをしっかり押さえておくことは、未来に向かって農村を持続していくことの鍵にもなりそうだ。
「ここには何もありません。有名な山や綺麗な湖が見られるわけでもなく、ただ田んぼと畑しかない。だからうまくいった。宿の親父が、何かしなければならいと、一生懸命考えました」と、長野県飯山市の戸狩温泉で民宿を経営する、“四季彩の宿 かのえ”の主人、庚(かのえ)繁樹さん(63歳)。地元観光協会の会長を務めたこともあるが、家は代々農業を営み、民宿の経営を始めてからも、変わりなく農家であり続けている。
今はスキー場としてよく知られている地域だが、「もともとは純農村地域で、宿の親父はみな農家です」。農家民宿が集まってできたのが、この戸狩温泉であり、観光地となった今でも農業と深い絆で結ばれている。農業と観光のコラボレーションがどのような成果を生み出してきたのか、話を聞いた。
自分たちが暮らすこの戸狩に「スキー場を作ろう」という話が持ち上がったのが昭和30年代の半ば頃。「私の父親の世代で、彼らが若者の頃に言い出し、周囲からは何を夢のような話をしているのかと、呆れられるような話だったようです」。冬場は積雪が、2~3mにもなる特別豪雪地帯にあって、その時期の仕事と言えば、出稼ぎか、藁を使って蓑や俵を作る内職。当時は東京オリンピックに向け、新幹線や高速道路の整備などで出稼ぎの仕事は多くあったが、「女の人や年寄り、子供たちに雪を任せて家を空けることの不安」もあり、何か地域で内職以上の仕事を作ろうという思いがあった。その頃、近隣にある野沢温泉では「スキー場が軌道にのってきた頃で、俺達にもそういうことができないのか」と動き出した。
日本の民宿発祥の地
野沢温泉は湧泉の発見が天平年間にまでさかのぼれるほどで、古くからの湯治場として知られ、温泉旅館もあり、元々各地から人が訪れてくる観光地。それにスキー場を開設した形だ。歴史も古く、昭和25年にスキーリフトが敷設され、昭和30年頃にはスキー客で賑わいを見せ始めていた。
しかし戸狩の地に元々あったのは田んぼや畑ばかり。めぼしい観光資源など無く、人を呼べるものが何もない所からの挑戦となった。ただ、各農家は「養蚕をしていましたので、茅葺き屋根の大きな家が多く、部屋の空きもあって、そこにお客を迎える形で、まずは5軒ほどで始まりました」。この地は日本の民宿発祥の地とも呼ばれている。
当初は、スキー場にリフトもなく、裏山をならしただけのものだった。そして、「この辺りの出身で東京に出て活躍している人を頼って観光客を誘致したり、施設の建設にお金を出してくれる人を探したようです。2、3年後、東京の運動具店がスポンサーとなって建設費の多くを出し、待望のリフトが完成しました」。
ただ潤沢な資金があるわけではなく、「建設費を安く抑えるため、基礎工事のコンクリートや土木工事は自分たちで行ったそうです」。必要なものはできるだけ自分たちで作る。農家にとって、ごく当たり前の発想だったのではないだろうか。こうして手作りのスキー場が生まれ、関連施設での雇用も行われるようになり、冬に出稼ぎに行く時代が終わっていった。
スキーブームに乗って大きく成長
庚さんが民宿を始めたのは18歳の頃。「ここの民宿を始めたのは昭和47年、私が高校を卒業する年で、リフト会社に勤めながら農業をやっていた父親から民宿をやらないかと勧められました」。地域に仕事があるということが、若者を家に残すことになり、地域農業持続へと繋がっていった。ただ、若者としては都会への憧れがあったかもしれないが。
庚さんの民宿は創業世代に次ぐ第二世代に当たり、「何とかスキー場としてやっていけるのではないかと思われ始めた頃です」。世は高度経済成長のただ中にあり、民宿は将来有望な事業として銀行から資金も容易に調達できた。ただそれでも当初は年末年始と1月、2月の連休で満室になるぐらい。「本当に忙しくなってきたのは昭和50年代後半に入ってきてから」。スキー人口が増加の一途を辿ったスキーブームがあり、冬場の稼ぎが年間を潤すようになった。5軒から始まった戸狩スキー場の民宿は、ピーク時に150軒ほどまで数を増やした。
その冬場の動きと並行して夏場の集客も進められていった。まずは民宿の創業世代が、「学生村というものをやっていました。夏の涼しさと、ここの静かさを利用し、受験生などが勉強するためにやって来て、1カ月間ほど住み込んでいました」。次に大学生や高校生が夏休みに行うスポーツ合宿などの受け入れが盛んになった。食事と部屋を提供するだけで受け入れる側の手間は少なかった。その後に受け入れ始めたのが、「わんぱく村とも言うような、子供たちの自然体験教室です。昭和の終わりから平成10年ぐらいまで、私の所では夏場のこちらの方が冬場よりたくさんお客がいました。夏休みの30日間は、連日満室状態でした」。
この頃は冬場、夏場とも戸狩で営業する民宿にとっては賑やかな時間となった。平成3年には掘削により天然温泉を自噴させ戸狩に新たな観光資源が加わる。良い時代が続いた。しかし、平成元年の年末に日本の株価がピークを迎えた後、バブルが崩壊。日本経済が大きな打撃を受ける中で、観光のあり方も徐々に変化し、スキーブームも終焉していった。「それでも平成7,8年頃までは、それほど影響を感じませんでした。実感するのはそれからです」。
農家だから提供できる本物の農業体験
夏場の自然体験教室が盛況に
スキー客が減少するのと同時に夏場の自然体験教室の受け入れにも変化が出てきた。時代が変わっていく中で余暇の過ごし方にも変化が現れ、家族でテーマパークに行く、あるいは飛行機でリゾート地に行くなどが増え、次第に人が集まらなくなっていった。そこで新たに力を入れて取り組み始めたのが学校の行事として行われる教育旅行の誘致。平成7年から受け入れ始め、年間50校を超す人気となり、モデル地区にも指定された。
「平成10年あたりは5月、6月だけで1万5000泊の収容になりました。今迄人がいなかった時期です。秋にも教育旅行があるのでオフシーズンの集客になり大変助かりました。スキー場はリフトを動かし、食堂を運営し、パトロールを雇い、雪上車でゲレンデの整備などもしなければなりません。そのために多くの経費が必要となりますが、この教育旅行には、受け入れの事務を行う事務局とそれぞれの宿が体験を実施するだけ。言ってしまえば特別なことは何もいりません」。
もし戸狩が普通の観光地なら教育旅行の学生を受け入れることは難しかったかもしれない。教育旅行では、助け合い、楽しみ、絆を深めることが大切だが、まずは学ぶと言うことが大前提にある。戸狩は農家が経営する農家民宿であり続け、農業がその学びの提供を可能にしていた。
農家であり続けたことが魅力に
「1クラスを4つに分け、1つの宿に約10人ずつ分かれて宿泊してもらっています。この人数ならば人を頼まずに受け入れることができます。宿屋の主人が引率して体験にも連れて行きやすいし、女将も10人なら1人でご飯の支度ができる。部屋も満室にならないので、シーズン中次々来る宿泊者の受け入れがスムーズ。空いた時間に農業をすることもできます」。
戸狩にあったのは名所旧跡ではなく農業と豊かな自然。命を育む仕事である農業は教育との相性も良く、高い成果を上げることになった。それが評判を呼び、口コミで広がり、受け入れ校数の増加に繋がっていった。
スキー客が減少する中で民宿も数を減らし、現在約60軒ほどだが、それでも生き残り続けることができたのは、一つに農家であり続けたことが大きかったのだと感じる。農業は何度も大きな転換点を迎え、GATTウルグアイラウンドでは国内農業振興のために数々の施策が行われたが「こちらでは関連で体育館が建てられました。コストのかかる中山間地の農業は諦め、観光地として生きていくためのもの」。しかし、その流れに沿って農業から手を引いていれば、今の戸狩はない。
“ここには何もない。だからうまくいった”
今は農業が人を呼ぶための大きな価値になっている。民宿で用意されている体験メニューは「田植えや畑での作物収穫、草取り作業」などの農作業が一つの大きな柱。そこから様々なことを学ぶことができる。またそれだけではなく、これに加えて「収穫物からジャムを作ったり、蕎麦を打ったり、あるいは近くを流れる千曲川でのカヌー体験、お年寄りによるお手玉作り、おとなしい子どもには草木染め」と、宿泊客それぞれに合わせて楽しませている。
「何年もやっているうちに、子供たちやお客さんを楽しませるコツを学んでいきます。草取りの合間に、例えば毒の無い蛇を捕まえに行ったりします」。野遊びなどを織り交ぜながらここでしかできない体験を提供していく。ただ、体験を提供する側の苦労も当然ある。農村に生まれたからカヌーができるわけではなく、習得のために教室に通っているのだ。また女将さんのジャム作りも集まって講習会を開き、地域の年寄りから、藁草履の作り方を学んだりもしている。
“ここには何もない。だからうまくいった”との言葉は、自分たちの力で何とかしてきたということの裏返しでもあるようだ。またその土地にあっては当たり前のことが、宿泊者にとっては大きな価値になっているということもある。豪雪は豊富な水になり、美味しい水となって田畑を潤し、味の良いお米をつくる。そのお米、あるいは畑で穫れたばかりの野菜などが食卓に並ぶ。戸狩は星ふる村とも言われ、満天の星が夜空に煌めく。当たり前の贅沢がそこにある。
外国人旅行者が農業体験にやってくる
当たり前の日常が観光資源になる
平成27年に北陸新幹線の長野と金沢間が開通。戸狩がある飯山市は、その途中に駅を持つことになった。それを一つの契機として平成22年に一般社団法人信州いいやま観光局が設立され、観光の振興に取り組んできた。農業や地場産業との連携により飯山らしい観光振興を図ることが目的で、観光案内、観光施設の運営に加えて旅行業も行い、農業体験や森林セラピーなど常時100件程度の着地型旅行を企画・販売している。
観光地として誰もが知っているような有名な場所ではなく、その中で“何をアピールしていくのか、余所に無いものをどのように提供していくのか”を課題とし、地域に根ざした旅行業者として、農業を含めた地域の魅力を旅行商品として提案している。これまでヒットしたプランには、雪国ならではの“かまくら”の中で、名物の“のろし鍋”を囲み、農家民宿で一泊するというものがある。身近にある大量の雪をうまく活用した豪雪地帯ならではの企画。地元の人は何も無いというけれど、その地の当たり前が立派な観光資源にもなる。
今迄気づかなかった魅力を外部の人間が発見するということがある。最近の訪日外国人の増加も、旅行者による日本の再発見と捉えることができる。今、野沢温泉ではオーストラリア人などの外国人スキー客が増えている。オーストラリア人が旅館のオーナーになったことが一つのきっかけだったようだが、パウダースノーの雪質に加えて、古くからの湯治場の風情がたまらない魅力のようで、リゾート地では得られないものが来る者の心を掴んでいる。
戸狩温泉でも外国人の観光客が増えている。庚さんの所でも「戸狩温泉の上部を通る信越トレイルを歩く人、農業体験をしたいという家族、グループが宿泊してくれます」。日本に来る目的は様々でディズニーランド、富士山、京都、アキバなどの中に、最近は田舎もまじっているようだ。農業体験を通して日本の農村や暮らしに深く触れる。民宿にとってはオフシーズンと平日の集客に繋がるありがたいお客さんになる。かのえの女将さんは英語の勉強もし、旅行社の日本支店との交渉も行う。「積極的に外国人旅行者を受け入れていきたいと思っています」と、期待は大きい。
本物が人を引きつける大きな価値
「教育旅行の受入数は最近減っています」。分散して宿泊するより、1ヵ所に宿泊して手間を省きたいというのが、最近の傾向のようで、「これから先はしっかりと自分のお客さんを持っていないと難しいでしょう。口コミで広がっていくのが一番強い」。ここにはリゾートに無い魅力、まがい物や代替物では得られない本物がある。食事にしても、景色にしても、人との繋がりにおいても。それは紛れも無い文化であり、結局はそれが人を引きつける大きな価値となっている。
課題は、やはりここでも高齢化。後継者が少なく、庚さんの家でも、息子さんはいるが、跡を継ぐ予定はない。新しい時代がやって来ようとしている。どんなものになるのか、はっきりとは分らないが、「自分の米ぐらい自分で作りたいと思う」。それが庚さんの願いでもある。
旅に出る理由。まがい物に疲れて本物に出会いたくなるから。どうだろうか。戸狩温泉の農家民宿にはその思いを満たすものがあった。それは日本らしさを色濃く纏ったもので、そう思えば“クールジャパン”とも言える。旅人には未知なる文化との貴重な遭遇になる。それを提供する仕事なのだ。その先が地域の未来に繋がれば素晴らしい。