コロナ禍の中、都市部では流失人口が流入人口を上まわるようなことが起き、転出人口はかつて無く増加している。リモートワークでコミュニケーションの形が変わり、働き方も変わる。それはライフスタイルの幅を広げることになり、月数度の出社なら、都市圏を離れてもかまわないとする向きが生まれ、また感染リスクを下げたいとする気持ちも重なって一つの動きとなっている。
この機会に都市部以外で転職先を探す人、地元に戻ろうと考える人、早期退職で田舎暮らしを検討する人、地方へと人の目が向かう。後継者不足に悩む生産現場では大きなチャンスだ。その人々は必ずしも農業をするために地方に向かっているわけではないが、地方の暮らしは農業との距離が近く、日常の中で関わりを持つ確率は高まる。ニューノーマルが農村の景色に新たな彩りを加えようとしている。30歳を過ぎてから農業を始め、大きな成果を上げている生産者からその可能性を探る。(記事中の数値・状況は2021年5月現在)
会計事務所からリンゴ栽培農家へ
都会から田舎へと視線が向かう
まずはこんなシーンを思い浮かべて欲しい。「田舎に、帰るかぁ」と夫がぽつりとつぶやく。都会暮らしの家族、妻も夫も30代半ば、子供は一人で、小学校低学年。夫はターミナルに隣接した大手百貨店に勤めるもコロナ禍の中、客足が鈍り、月に何日もの自宅待機。妻も飲食店でパートをしていたが一時解雇状態。先行きが見えず、憂鬱な日々が続く。今が我慢のしどころだと感じているが、暮らし方を見直す機会だとも思っていて、「それも良いかもね」と妻の気やすい返事。お互いそれほど本気とも思っていないが、「でもどうやって暮らすかだな」と夫は話を進めてみる。「お義父さんの畑を手伝えば良いんじゃないの」、「そんなに大きな畑じゃないよ、仕事になるかどうか」、「でもお義父さんがつくるものはスーパーで買うものより美味しいわよ。あなたが戻って大きくすれば良いんじゃないの?」。田舎じゃ高齢化で畑を手放す人も多いと聞くが、本当に農業で食べていけるのか。「ちょっと調べてみるかぁ」と夫がスマホをいじり始めた。
田舎に帰って、あるいは田舎に行って、農業を始める。多くの不安があるが、その大元にあるのは「今の暮らしをより良くできるか、どうか」という問い。長野県伊那市と隣接する箕輪町に園地を持つ果樹農家を訪ね、その疑問の答えを探った。
リンゴ栽培というビジネスを立ち上げた
中央アルプスと南アルプスに抱かれるようにしてあるのが伊那市や箕輪町。標高600~1000mにあって、寒暖差も大きく、高い晴天率、豊かな水、と自然環境に恵まれ農業が盛ん。そこでリンゴを生産販売しているのが与古美農園だ。代表を務めるのが伊藤剛史さん(39歳)。「私の農業は、みんながやっていない品種を低コストで大量につくり、それを高単価で販売するスタイルです」。園地は7haに及び、県内有数の規模で農業を展開している。
就農したのは7年ほど前。それまでは会計事務所に勤め、様々な会社の財務に関わり、経営アドバイスなどを行っていた。「学生の頃から自分でビジネスを立ち上げたいと思っていて、そのための勉強になりました」。大学卒業後に、1年間オーストラリアにワーキングホリデーを使って滞在した経験もある。仕事の一つとして現地の大規模農業を目の当たりにし、その桁違いのスケールと農業経営者のありかたに「大きな衝撃を受けました」。それらの経験、会計事務所の勤務を経て、いつしか、実家のリンゴ栽培にビジネスとしての可能性を見いだした。
「高齢化が進展し、生産者が減る中でも、リンゴに対する需要は根強いものがあります」。その上で実家には既にリンゴ栽培のための農地、ノウハウを含めた基盤があり、「ビジネスチャンスだと思い、思い切って就農しました」。それまでは漠然と定年退職をしたら継ぐのかな、という程度の認識だったが、一転、姿勢を正し、本気で取り組む仕事となった。
与古美農園のリンゴ栽培は「祖父の代からで、父はJAの普及員との兼業でした」。高い栽培技術があり、伊藤さんが就農してからコンクールに出すことを提案。長野県の“うまい果物コンクール”などで連続入賞し長野県知事賞も受賞。与古美農園の高い品質が広く知られるようになりブランドを確立していった。その栽培技術を受け継ぎつつ、「就農当初は2haの規模で、そこから収穫できる高品質なリンゴをネットで少しでも高く売れればと考えていました」。しかし、農業に取り組み初めて1年目に受けた研修で、高密植栽培という新しい栽培方法と出会い、経営の方向を変えることになった。
規模拡大を可能にする高密植栽培
労力を大幅に低減しながら収量増を実現する
「高密植栽培はイタリアなどで盛んに行われている栽培方法で、通常2~3mの幅をあけて苗木を植えるところ 、80㎝間隔で密植していきます。1haに3300本の栽培本数になります。根と根がぶつかりあい、大きくなれず、出た枝は真下に誘因し、樹勢を弱めます。吸い上げた栄養は木ではなく、果実の方にいって、花芽も多くなり、収量が増えます。また、葉が茂らないので、陽によくあたり、美味しくなります。従来は木をしっかりとつくってから果実を実らせるのですが、それとは大きく異なる方法です」。
枝を張らせないので、剪定の手間が省け、葉が茂らず収穫しやすく消毒回数も約半分となる。収量は一本の木から最大で80個ほどとれ、一般的な方法に比べて3倍にもなる。労力を大幅に低減しながら収量増を実現する栽培方法となっている。「従来の方法に自信を持って栽培している方は取り入れるのをためらわれますが、若手や新規で入ってこられる方は、どんどんこの方法を取り入れています」。
農業を始めて1年目でこの方法を知り、2年目からは実践、現在6haの規模となり、「高密植栽培では恐らく日本一の規模になっているのではないでしょうか」。新しい栽培方法が規模拡大を可能とし、その方向に経営のスタイルを変えていった。
付加価値の高い品種で高価格の販売
植えている品種は10種類以上あり、早生種、中生種、晩生種と取りそろえ、8月から11月まで収穫を行う。その中で特に力を入れているのが2.5haの規模のシナノリップと、2haで栽培している“あいかの香り”。シナノリップは8月収穫の早生種で、「つくりやすく秀品率が8割と優秀です」。果実は収穫が遅くなればなるほど、傷みやすい。虫や鳥、風雨に耐える時間が長くなるわけで、「5割ほどがだめになる品種もあります」。また市場に出回るリンゴが少ない8月に収穫でき、コンテナでの市場出しで値段も良く、利点は多い。
“あいかの香り”は11月収穫の晩生種で、つくり手の少ない希少品。つくり方や場所によって色づきがうまくいかないことがあり、簡単につくれるという品種ではない。しかし「大玉で、蜜が霜降り状に入って、糖度が高く、他にはない甘い香りがします」。その品質で人気は高いが、市場には限られた数しか出回らず、高価格での販売が可能になっている。
全体の収穫が終わる11月以降は貯蔵による出荷を行っているが、このほどコンテナ型の大型冷蔵庫を導入し、スマートフレッシュなどを使った貯蔵方法の工夫と合わせて、5月まで出荷することを目指している。
LINEグループで労働力を確保
付加価値の高いリンゴを高密植栽培とそれに伴う規模拡大で低コストかつ大量に生産するのが伊藤さんのビジネスモデル。それを実践していく上で不可欠な要素となるのが雇用の確保だ。最初は伊藤さんとお父さんの2人で作業をしていたが「ある時ラーメン屋で主婦の友人に偶然会い、その時、来たいときに来てもらえば良いから仕事を手伝って欲しいと声を掛けました」。それが雇用の始まり。
その後、働き始めた主婦の方がSNSで、“こんな仕事をしている”と拡散すると、同じように働きたいという人が50名ほど集まり、仕事があるときに好きなだけ働いてもらうスタイルで労働力が確保されていった。「その後、LINEグループを作って、登録していただき、今はこちらから“今日仕事があります”と投げかけると、都合のつく方から “行きます”という返信が返ってくる方法になっています。常時5~6人の方に仕事をしていただいています」。
また時給制の他に成果報酬型も取り入れ、区画と作業内容に応じて報酬を決め、希望者に割り振っていく。「時給制だと人件費が変動しますが、成果型だと、コストを確定することが出来ます」。人を雇うことは、大規模化を進める上で欠かせないが、大きな負担も伴う。仕事があるときにどうやって人を集めるか、技量の差をどうすれば公平に評価できるか、仕事を続けてもらうモチベーションをどうやって維持していくか、どうすれば適正な人件費となるのか。それらの課題解決のため新しいツールや考え方が取り入れられている。
農業以外の知識と経験が役立つ
ふるさと納税の返礼品が好調
販売ルートは、「今主体になってきているのが、ふるさと納税の返礼品です」。旺盛な引き合いがあり、コロナ禍での巣ごもり需要もあって、顕著に伸びてきている。それに加え市場出荷、直売所販売、ネット販売などを展開している。その中で品種、品質、価格、生産方法、コスト、生産規模、雇用など、様々な面で経営の最適化を目指し、つくればつくっただけ利益が上がる経営体質を構築している。
「生産においては拡大しただけ売上が上がり利益が残るモデルケースができましたので、これからは加工にも力を入れていきたいと思っています」。ふるさと納税の返礼品としての需要もあり、現在は委託加工の方法でリンゴジュース、リンゴジャム、リンゴチップスを製造し販売しているが、今後は自分たちで加工施設を持ち、運営していきたいとしている。経費節減と新たな商品開発にも繋がりそうだ。
お父さんと二人、2haから始めた農業が約7年でここまでになった。当初、意欲的な売上目標を定めていたがそれも昨年達成した。「元々農業が好きでしたし、雇われるのではなく、経営者として自らの意志で決定し、動き、結果を出していくことが楽しいですね」。農業を通して、サラリーマンでは感じることができない経営者としての喜びを感じているようだ。「後悔はありません」。
農業をビジネスとして捉え、しっかりと数字に置き換え、最適化を図り、需要やトレンドを読みながらしっかりと結果を出してきた。農業以外の仕事を全力で経験すること、また日本を離れて世界を知ること、それらが視野を広げ、先入観に捕らわれないで新しいことにチャレンジする力となっているようだ。「前職は間違いなく役立っています」。農業以外で得た知識や経験が農業をアップデートしていく。
農業を始めるチャンスが来ている
そんな伊藤さんの所では、自身の経験も踏まえながら、新規就農の希望者を研修生として受け入れている。その中には自分で土地を確保し、目標を明確にして、具体的な数字を定め、意欲を持って取り組むIターンの人もいる。「8月に収穫するシナノリップのみで経営したいという研修生もいます」。収穫が早期に終了すれば時間に余裕が生まれ、その時間を農業以外のことに使い、暮らしを豊かに彩ることもできる。「生活スタイルにあわせて、自由に自分のしたいように経営ができます」。それが大きな魅力でもある。
現場では「高齢化が進展し、つくり手が減り、農地が余っています。まとまった場所を入手するためにはこちらから積極的に交渉していかなければなりませんが、今はチャンスだと思います」。また新規就農に対する補助金や支援制度も充実している。園地のある箕輪町でも就農支援には力が入る。町内の先進農家に学ぶ新規就農里親制度や、農地取得についての相談、新規就農者住居補助金で1/2家賃補助を行うなど、就農定着に向け積極的に展開している。「後はもうやる気です」。
農業は儲からないと言われる、農業は成長産業だとも言われる。共に事実で、どちらかが正しくどちらかが間違っているというものではないが、現場を歩いてみると、状況は刻々と変化しており、今、農業を始めるチャンスが確かに来ていると感じる。チャレンジする価値は大いにありそうだ。
しばらくスマホをいじっていた夫が顔を上げる。そこには久しぶりに見せる明るい顔があった。「何か今、チャンスかもしれない」。声音には楽しげな響きがあり、それが妻にも伝わるようで、どこか浮き立つような気分が、二人の間に広がっていく。