作物の鳥獣被害を少しでも減らすため、古くから田畑で案山子がたてられ、今でも様々な形で作物を守っている。光るものや動くもの、音を出したり、オオカミ型なるものもある。最近では“電子案山子”も登場。と言ってもこちらは鳥獣害対策ではなく、農業の見える化を可能にするもの。“e-kakashi”が農業をデータ化し、次世代へとバトンを繋ぐ架け橋になろうとしている。
地域農業を如何に持続させていくか。そのためには技術の継承、労働負担の軽減、管理作業の高度化などが必要であり、そこにICTが大きな役割を果たす。早い段階からICTを農業振興策に取り入れた京都府与謝野町を訪ね、その取り組みを探った。(記事中の状況・数値は2018年3月現在)
ICT農業で後継者を育成する
町のブランド米を残していくために、農業をデータ化していく
実りの秋には、収穫を終えた田んぼにコウノトリが飛来し、町を南北に流れる野田川には鮭が遡上する。南には酒呑童子の伝説で知られる大江山連峰、北には日本三景の一つ、天橋立で隔てられた内海・阿蘇海があり、山と川と海が織りなす豊かな自然に囲まれて京都府与謝野町はあり、盛んに農業が行われている。
取材に訪れたのは2月。一面雪で覆われていたがその下には圃場があり、そこでは、町独自の有機質肥料“京の豆っこ”を使用した特別栽培米、“京の豆っこ米”がつくられている。その栽培圃場であることを示す看板の横にはe-kakashi。平成27年10月に商用化されたもので新しい農業をつくる力になっている。
e-kakashiは圃場の環境データや作物の生育情報を基にして栽培方法を提案する農業IoTソリューション。圃場に張り巡らせたセンサーが地上の温湿度、日射量、土壌内の温度や水分量などの情報を収集し、子機から親機を経由してクラウド上にデータを蓄積する。そのデータはパソコン、タブレット、スマートフォンなどに入れたアプリケーションをから参照することが可能で、農作業の効率化や農作物の品質向上に役立てることができる。ただし、機器の設置にはそれなりの費用がかかるため、与謝野町では町で購入する方法をとり、6〜7台をベテランの米農家や京野菜を栽培する若手の新規就農者などに貸し出し、試験的にデータの蓄積を行ってもらっている。
目的はあくまでも“後継者育成”。そのため、機器を置くだけでは意味がなく、機器が収集したデータを共有するためのワークショップを年に数回行っている。若手農家とベテラン農家が一緒になって技術を高めていこうとする取り組みで、「数字で残る履歴を見て議論するわけですから、普及センターや農業技術者の視点とは異なりますし、若い人たちも数字を見て自分の農業を検証できるので、彼らなりに納得して取り組めている様子です」。そう語るのは与謝野町農林課主任の井上公章さん。これまでの取り組みには町として手応えを感じているという。
ワークショップの参加者も、自分たちが蓄積したデータが就農支援ツールとして活用され、新規就農者の手助けになればと積極的だ。新規就農者はそれぞれ多様で、ICTだけでは就農に繋がらないという認識も持っているが、「若い人は皆スマホを持っていますし、その辺りで支援できるような施策で、他とは違ったやり方をすれば興味を持ってくれる人もいるのではないかという発想で取り組みを進めています」。そもそもICTの農業への導入を検討し始めたのは、人口減少や高齢化が進行し、町が約20年前から推進してきた自然循環農業の技術やノウハウを次世代へ伝えることが困難になってきたため。環境に配慮し、町のブランド米“京の豆っこ米”を栽培するには、熟練の技がどうしても必要になる。
ベテランの技術・ノウハウを見える化する
データから適期作業を予測し、より精密な農業に
取材日当日、JA京都与謝野町(京の豆っこ米)生産部会部会長の小谷安博さん(60歳)の自宅を訪ねた。小谷さんは、就農して約15年、父親の跡を継いで、現在は水稲(4ha)と大豆(1.5ha)を1人で栽培する。就農当時は機械も小さく、面積を増やすためにと大きな機械に更新してきたが、それが「けっこう大変でしたね」と当時を振り返る。装備は時代と共に進化し、今は手元にあるスマートフォンも農具の一つ。e-kakashiの使用歴はプロトタイプの試用を含め3年目に突入した。
町では平成25年度、本格的にICTを活用する新しい農業モデルの確立を模索するため、協議会を立ち上げ、今の“与謝野町スマートグリーンビレッジ確立協議会”へと繋がった。e-kakashiを開発するPSソリューションズ㈱もメンバーの一員。小谷さんが協議会に関わるようになったのは約3年前。認定農業者で、有機質肥料の“京の豆っこ”を用いてコシヒカリを栽培し、共励会などで度々表彰を受けていた小谷さんの知識と技術が請われた。当時、小谷さんはスマホを持っておらず、「井上君に『ガラケーではあかんで』と言われて」、ようやく使い始めたが、今では2台目となり、「使いすぎて」いるほど。10分間に1回蓄積される圃場データと、1時間に1回映し出される圃場の様子が、スマホから確認できる。「例えば中干し、追肥、出穂、刈り取りの時期などが予測できるようになっている。自分の目だけでなく、データによっても適期作業が行える」。目視だけでも、経験のある小谷さんにはある程度の適期が掴めるが、「今は特に異常気象で、水稲の場合は半年先が見えない状態。こうした機械に頼っていかないといいものはできない」と小谷さんは言い切る。
土壌肥沃度指標(SOFIX)や、農業経営を支援するアプリ“Agrion”も活用
小谷さんが使用するのはe-kakashiだけではない。立命館大学生命科学部の久保幹教授らが開発した土壌中の微生物量や微生物による窒素循環、リン循環を数値で表す土壌肥沃度指標(SOFIX)や、農業経営を支援するアプリ“Agrion”も活用。秋にはSOFIXで土壌分析の評価を行い、肥料やミネラルなどの散布量を割り出して散布し、秋起こしをする。そうすることによって余分な肥料散布が抑えられ、春作業が減らせる分、労働の分散へと繋がっていく。一方、Agrionには、作業時間、作業場所、作業内容、使用機械や肥料・農薬の価格などを入力。データ化することによって稲作の経営改善に繋げていく。
小谷さんには子供が2人いるが、都会に出て働いている。「農業の面白味がわかれば帰ってくると思うんですけどね」。将来、戻ってきた時には農業はまったくの素人で、「田植えはどうやる、トラクターはどう乗るという疑問から始まる。農林課に様々なデータが蓄積されていれば、その分、早く作業がわかるようになります」。小谷さんの地域でも、後継者問題は深刻だ。年々農家数が減少する中、これまでの農地を維持していかなければならず、一人当たりの負担が大きくなっている。また従来通りの農業では経費の無駄も多く、規模を拡大すればそれも増大する。ICTが負担の軽減と経費削減に繋がればとの期待もある。
何より「ベテランの私たちにもわからなかったことがわかるようになってきた」と小谷さん。その上で、e-kakashiによって新規就農者や担い手に対しても「適確に私たちの経験や勘を伝えられるデータづくりができてきている。それは、与謝野町の“京の豆っこ米”栽培を引き継ぐのに非常に正確なデータで、e-kakashiがなければできなかったこと。やってよかった」と大きくうなずいた。
早期に結果の出る土台づくりを支援
ICTを活用し地域の栽培技術を安定させ向上させる
与謝野町では、小谷さんのような経験のある農家に協力を求める一方、パイプハウスで京野菜などを育てる若手生産者や新規就農者にもe-kakashiを貸し出し、蓄積したデータをワークショップに活用している。そんなユーザーの一人が就農6年目の杉原良さん(40歳)。6棟でネギ、キュウリ、水菜を栽培する杉原さんは、京都府向日市育ちの非農家出身。農学部で学んだことを活かしたいと就農。まずはネギを周年栽培する岡山の農業法人で3年ほど働いた後、独立を目的に祖父母が暮らす与謝野町へとやってきた。妻と幼い子供が3人いる。
杉原さんは、経験があった分、他の新規就農者と比べ最初からスタートは順調。それでもネギは水やりが難しく、やりすぎると病気が出るため、常にハウスの状態が気にかかる。杉原さん個人への負担は大きい。昨年末、杉原さんは体調を崩して寝込んでしまい、奥様が生産現場の前面に立ち、ネギを植え、収穫した。冬場は水やりもあまり必要なく、換気もそれほど重要ではなかったが、経験を積んだ人にしか分からない微妙な変化に対する対応が十分できず、「いい状態ではなかった」。寝込んでいても、状態の変化を把握し、的確な指示が出せていれば、結果はもっと違うものになったはず。「何らかの指標があれば」と杉原さん。岡山の農業法人で働いていた時も、栽培状態を見える化できる指標があれば、もっと簡単に指示を出せていたのではないかと思っている。
e-kakashiを導入し、日々スマホを見て数字を確認するようになった杉原さん。その数字をどう使えばいいのかは模索している段階だが、それでも十分に様々な可能性をICT農業に感じている。一昨年、若手の農業者十数名が集まり“与謝野農業青年の会”を発足させた。メンバーは農業法人の従業員から米農家の息子まで様々。各々が自分の感覚、手応えで農業を実践している。杉原さんが一番気にしている水やりについても、方法は皆バラバラ。ICTを活用すれば、それらのバラツキが解消され、より良い品質のものを安定して栽培できるのではないかと期待も大きい。地域農業の発展にも繋がる。「利益の向上と管理作業の軽労化が図れます。いつもハウスを気にしているのは負担ですし、それが少しでも楽になるは嬉しい」。また将来的には、都市部から来た新規就農者の視点を活かし、都市部で農業に関心を持つ人々との関わりを増やしていきたいと思っている。働き盛りに過労で倒れる人は多く、自身も同様の経験があり、「働き方を見直していかなければなりません」。そこでもICTの可能性は大きい。
受け継がれてきたものを資源として活かし、次の世代へ繋げていく
与謝野町がICTの活用を進める分野は農業だけではなく、物流においても取り組みが行われている。町内の走行車両の位置情報を収集し、経路ごとの走行頻度を分析してより効率的な人と物の流れを生み出そうとする共同実験を行っている。町が目指す“スマートグリーンビレッジ”の全貌が徐々に明らかになってきた形だ。これまで受け継がれてきたものを守るだけではなく、それを資源として活かし、次の世代へ繋げていくために、新しい技術を柔軟に取り入れていこうとする姿勢が窺える。その思いを町全体が共有している。
「環境に優しい農業をしていく。それが一番大事。そこが狂えばすべてが狂う」と小谷さん。コウノトリが舞い降り、鮭が産卵する美しい自然が自慢の与謝野町を守るためにもICTが大きな力になると感じた。